養老孟司先生「ひとと動物のかかわり研究会 第2回サマーキャンプ」
わずかな違いに気づく力は、子どものほうが持っている。
養老先生は、子どもの「目」を信じている。子どもには「ディテール」を見る目がある、と言う。自然のなかには、何一つ同じものはない。同じように見える赤トンボでも、同じように見える芝生の草も、去年の川と今年の川も、みんな違う。そうしたささやかな違い、わずかな差、つまり「ディテール」をとらえる力が、子どもにはもともと備わっていると。
「それだけの能力があるんだから、自然を見ないままに都会で育ってしまって、その力を失わせてしまうのは、ほんとうにもったいないと思ってね。都会のビルは、どこまでいってもただの無機質なコンクリート。つまりディテールがないんです。そういうところで大人になれば、ディテールを見る目は育たない」
たとえば、と養老先生は足元の芝生を指差す。一本一本は、必ず違う方向を向いている。一つとして同じ形の葉はないのに、ディテールの見えない目には、すべてが同じ『葉っぱ』としてしか見えてこない。
「『虫』でも『人』でも同じです。ひと一人一人はみんな違うはずなのに、『人』っていう言葉でひとくくりにしたとたんに、すべての違いがその言葉の背後に隠れてしまう。だから、一番大事なのは、すべてのものに違いがある自然、つまり、ほんとうのディテールに、子どもを触れさせておくことなんだろうと思う」
言葉は、ときとして「小さいけれども大事な違い」を無視してしまう。養老先生が言葉を使って教えるのではなく、とにかく森へ子どもたちと一緒に出かけるのは、そうした小さな違いを見極める目は自然のなかで育っていくものだからだ。
「人」と「自分」が違うことを学ぶ。
男の子も女の子も、みんな虫が大好きで集まった子どもたち。だが、世の中には虫を好きな人もいれば嫌いな人もいる。「なんで虫なんか好きなのさ?」と言われることも、これから、いや今までもあるだろう。
養老先生も小さいころから虫捕りが好きだった。同じ質問をいつもぶつけられるうちに、「好き嫌いは、人それぞれで違うものなんだ」ということを体で飲み込んでいった。
相手と自分が違うことを、認められる。そういう子どもは、他人に対して「どうしてそんな変なもの(役に立たないもの)が好きなんだ」と詰め寄る人間にはならないだろう。その人の考えはその人の考え。自分の考えとは違うのが当然だと思えるからだ。
隣を歩く女の子が、「この間、プールで潜ってたら水面にスズメバチがいたの。顔が出せなくて苦しかった」と話しかけてきた。「スズメバチだって人間が何もしなかったら刺さないでしょう?」と聞いてみる。
「でも、私が何もするつもりがなくても、スズメバチのほうは『何かされる』って思うかもしれないでしょ?」
こっちの「つもり」と、ハチの「つもり」は違う。まったくその通り。ハチと人間が同じように考えるはずという自分の大雑把さかげんを少女に教えられ、しばし唖然とする。
日に焼けて真っ黒になった顔や腕を汗に光らせて、子どもたちが山を降りていく。さあ、次は捕った虫をじっくり観察する時間だ。強すぎる太陽の光にすっかり精気を吸い取られてうなだれる大人(養老先生を除く)を尻目に、子どもたちは跳ねるように先を歩いていく。自然は、決して子どもを退屈させない。後ろを歩く養老先生がまた立ち止まり、自然のディテールに見入っている。






森を駆け回って虫捕りをした後は、細部を観察するために標本作りを学んだ。子供たちの興味の世界は無限に広がっていく。